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回想

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もちろん、石庭の造形もきれいですよ。枯山水はとても人工的なものです。こんなきれいなものが、こんなふうに自然に存在するわけがない。周囲の木は全部自然の木だから、風が吹けばすぐ葉が落ちるはずですね。しかし枯山水には葉が落ちていなくて、熊手のようなものできれいに線までつけられている。つまり、ものすごく人工的なオペレーションが行われているはずです。
しかしながら、石は、自然にあるように置かれて、そこに苔が生えている。苔っていうのは、待たなきゃならない。5年、10年、15年と待つ、それも、必要な苔とそうじゃない苔の繁茂を分別しながら待つという、意志的な辛抱強さがないと、こういう苔の生えた庭はできない。人工と自然が絶妙に調和しているわけです。

2 years ago

February 13, 2010
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つまり、椅子が「力」を表現する必要も、貴族趣味を表現する必要もなくなるんです。だとすると、最短距離で「座る」という行為に寄り添うかたちや機能を考えればいいということで、急速にすっきりした椅子ができてきた。

2 years ago

February 13, 2010
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伊勢神宮の建築様式は、大きく言うとポリネシア系だと思われます。ローマや中国からの影響じゃないですよね。太平洋の文化。しかし、20年に1回、千数百年にわたってこんな伝承をしているうちに、純日本風としか言えないのものに進化した。それが日本のかたちなんですね。

2 years ago

February 13, 2010
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日本流の保存というのは、全く同じものをなぞり返して、更新していくことで何かを受け継いでいくというふうに発想するわけです。

2 years ago

February 13, 2010
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屋根付きのエンプティを「屋代」と言います。これを垣で囲うと神社の基本ができる。何もないところに神様が入るかもしれないという、可能性がそのまま構造化された。

2 years ago

February 13, 2010
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鳥居もまた空っぽです。入り口であり出口である、ここから出たり入ったりするということを示す空っぽです。この鳥居に導かれて中心部に至るわけです。真ん中の屋代を囲っているのは透垣(すいがい)という透過性のある垣で、何重にも囲われているんです。
この、神様が入っているかもしれないという中心の空っぽに対して、自分の気持ちを投げ入れる。つまりエンプティを介して、神様と交流するわけです。いい人に出会えますようにとか、大学に受かりますようにとか、そういう気持ちを投げ入れて帰ってくるわけです。神社のほうも気を利かして、よくお詣りなさいましたとかいって、ご褒美に紅白の饅頭とかくれてもよさそうなものですけど、神社はそんなことをしない。さらに空っぽの箱を屋代の前においておく。だから参拝者は気持ちだけじゃなくて、思わず千円札なんて入れちゃったりするわけです。つまり、空っぽを介在させて、不可知なるものと交流するという、エンプティネスの運用が、基本ルールなんです。

2 years ago

February 13, 2010
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四隅に細い杭を立てて、そこに縄を張る。すると空っぽの、つまりエンプティなユニットができあがるわけですね。空っぽというのは満たされる「可能性」そのものとしてあるわけですから、神様はそれをが見つけて、ふらりと入るかもしれない。神様は常に目ざといですからね。確実に入るわけではないけれど、入るかもしれない、という可能性がそこにはあります。その「かもしれない」という可能性に対して古代の日本人は手を合わせた。

2 years ago

February 13, 2010